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zoom RSS 喜々として戦争画を描き続けた大芸術家、藤田嗣治

<<   作成日時 : 2017/03/20 01:01   >>

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 私が藤田嗣治の戦争画に出会ったのは、もう30年以上も前のことだと思う。都内のこぎれいな美術館で開催された戦争画展で、いろいろな画家の作品が展示されたのだが、その中で藤田の油絵はやはり抜きん出ていた。おどろおどろしく、物語性の強い作品群である。ベビーパウダーを使った絵の具で女性の肌を乳白色に描く繊細な画家、というイメージとは全く相容れない作風の藤田がそこにいた。戦前の彼はドラクロワやジェリコーにならったロマンチシズムただよう戦争画で、そのあり余る才能を発揮していたのだ。

 あの展示を観て以来、戦争期における画家たちの生き方がずっと気になっていた。今、手元に『美術手帖』1977年9月号がある。「戦争と美術」特集である。これと以前に図書館で複写した『三彩』(1991年発行分、瀬木慎一氏の連載「戦後空白の美術」)の二つの資料を手がかりに、大物戦争画家としての藤田嗣治について考えてみる。

 当時の画壇がどうなっていたかというと、産業報国会の芸術家版みたいな組織があり、そこの資格審査に合格しないと絵の具やキャンパス等の画材が支給されなかったし、出来上がった作品の販売価格も決定されなかった。つまり戦争を礼賛する作品を制作しないと生きていけないわけで、画家たちはそういう作風を選ぶという忖度を働かせた。そして藤田の場合、陸軍美術協会を牛耳って戦争礼賛の絵画論を展開し、喜々として戦争画を描いた。まさに旗振り役だったわけだが、敗戦の8月15日以降はさっさと資料を焼き払い、「画家が軍国主義者であるわけがない」などと理屈にならない理屈で自己正当化をしている。

 下の二つの作品を見比べると、藤田がドラクロワをほとんど模倣しているのがわかる。念入りに船の向きを反対にしている。
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藤田嗣治作 「ソロモン海峡に於ける敵の末路」

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ドラクロワ作 「ガリラヤ湖」(この作品はジェリコーの「メデューズ号の筏」の影響を受けている)

 では、彼の絵画論を紹介しよう。「美術」1944年5月号に掲載されたものを、「美術手帖」が1977年になって再掲したものから引用する。ちょっと長いが藤田の絵画制作における精神論や、また戦争に対する芸術家としての立ち位置がわかって面白い。

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『戦争画制作の要点』藤田嗣治(昭和十九年五月号『美術』より)

 前線は勿論銃後一億国民が戦闘配置について、米英撃滅戦愈々苛烈な決戦のこの秋に際し、美術界も亦奮然として未だ前例なき戦争展を開催し得た事は、実に大御稜威の御光の御賜と感謝する次第であり、更に我々はこの大戦争を記録画として後世に遺すべき使命と、国民総決起の戦争完遂の士気昂揚に、粉骨砕身の努力を以て御奉公しなければならぬ。

 戦争画を描く第一の要件は、作家そのものに忠誠の精神が漲つて居らなくてはならぬ。幕末当時の勤皇憂国の志士の気概がなくてはならぬ。「美術」創刊号の遠山氏の「美術家の覚悟」の中に、 「戦争画さへ描いて居ればいヽといふ考への下に描く人があつたら、魂の入らざるは当然である、云々」は全く明言である。今日の情勢に於ては、戦争完遂以外には何物もない。我々は、少く共国民が挙つてこの国難を排除して最後の勝利に邁進する時に、我々画家も、戦闘を念頭から去つた平和時代の気持で作画をする事も、又作品を見る人をして戦争を忘れしめる様な時期でもない。国民を鞭ち、国民を奮起させる絵画又は彫刻でなくてはならぬ。戦争は美術を停滞せしめるものとか戦争絵画は絵画を衰頽せしめると考へた人もあるけれども、却て其の反対に、この大東亜戦争は日本絵画史上に嘗て見ざる一大革命を喚び起して、天平時代、飛鳥時代又は桃山時代を代表する様な昭和時代の一大絵画の様式を創造した。今日上野で開かれて居る戦争展は、実にそれを証明して余りあるものである。
 
 戦争画と言えば、支那事変以前にどの作家も念頭に置いた事はなかつた。又古来の戦争画に就ての研究もして居らなかつた。突如として起つたこの戦争に即応すべく、美術家は世間の嘲弄、批評家の悪言を顧ず遂に今日の戦争画の一大出現をなし遂げた事は、日本としての誇りであり、恐らく現在の世界何れの国にも見得られない存在であらうと思ふ。

 私の体験から、戦争画を志して居る若い諸君に戦争画の技術に就て今から率直に述べてみたい。夫は前記の精神が第一であり、次には戦争についての体験又は知識を豊かならしめる事が第二の要件である。戦争画の場面に於て、風土時刻、距離、風速、温度、乾湿の度合、其の現場の特徴、更に其の戦争に参加した軍隊の作戦、服装、兵具等、総て正確に如実に資料を集め、軍部又は技術者の指導を受けねばならぬ。況して今日航空技術の日を逐ふての変遷進歩等は、一々の研究を忽せにしたならば、真の空中戦は描き得ないのである。支那事変当時の戦争と今日大東亜戦争の苛烈なる段階の戦争とは、自ら其の趣を異にして、現下の戦争画は全く苛烈なる凄い相を描写し、又は皇軍が窮地に陥ったり、或は悪戦苦闘の状況をも絵画に写して、猶皇軍の神々しき姿を描き現さねばならぬ。映画又は写真等について作画した作品は悉く失敗して居る。一瞬間の挙動には無理がある。絵画はより以上の自由さがあり便宜があるので、朝から晩迄の一日の戦闘を一幅の画に為ず事も得、或は三時間、或は十五分の戦闘を纒め得る事が出来る。が故に絵画は、最も観る人をして其の場面を髣髴させ、或は追想させ、或は感激させる強味がある。こゝに注意すべきは戦争画は到底写生によつてのみ出来る事でない。自分が画業を始めてから修業中に得た総ての技術を其処に集中して始めて出来るので、最も正確に写し得る技能とか技巧を先づ第一とし、更に動作等を自由に想像力を以て描きこなし得る画家のみに於て、戦争画は実現し得る事である。写生して居られぬ様な神速な動作とか表情とかは、全く画描きの多年の錬磨又は熟練した技巧に俟つより外はないのである。結局今迄種々多方面に亘つて勉強して居た画家は、最も戦争画に適すると言つていゝ訳である。

(中略)

 戦争画には種々な様式があつていゝと思ふ。陰鬱な或は暗黒な場面の暗い戦争画とか、或は明朗な明るい戦争画、技巧も其の画其の画によつて変へて描ぐべきものだと思ふ。今日の戦闘は、殆んど多くが夜とか払暁にかけて行はれるので、暗黒になり勝ちだが、更に戦争画の戦闘に、壮烈さとか凄みを加える為には、其処に宇宙の現象を借りて、普通の風景画より以上に雰囲気を増加させたい。私は雲間を洩る月の光とか、霞とか、稲妻とか、スコールとか、風とかといふものを多く採り入れて、戦闘に更に一種の雰囲気を増さしめて居る。或る戦争画の傑出せる作品は絵画の史上に於ての傑作であり得るのである。名前を列記して挙げる必要はないが、世界の巨匠の戦争画は、実に名画として其の実証を明かにして居る。日本で戦争画の名画が出ないといふ訳はない。ありと几ゆる画題の綜合したものが戦争画である。風景も人物も静物も、総てが混然として其処に雰囲気を起す。今日我々が最も努力し甲斐のあるこの絵画の難問題を、この戦争のお蔭によつて勉強し得、更にその画が戦時の戦意昂場のお役にも立ち、後世にも保存せられるといふ事を思つたならば、我々今日の日本の画家程幸福な者はなく、誇りを感ずると共に、その責任の重さはひしひしと我等をうつものである。(筆者は油絵画家、帝国芸術院会員)

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 以上少し長い引用になったが戦争によって大作のテーマを与えられ、後世に残る名画を描ける喜びに舞い上がっている画家の姿がうかがえる。だが戦況は悪化し、1944年秋から焼夷弾による本土襲撃が始まる。藤田はその直前の7月、神奈川県津久井郡小渕村藤野に疎開し、そこで敗戦まで戦争画を描き続けた。他の画家たちもいっせいに東京を離れたようで、このことを瀬木慎一は「恵まれた職業の特権」だったと書いている。一般の女子や年少学徒たちは、自由に疎開できずに軍需工場で働かなくてはならなかったのだから。戦後はフランスに渡って作風もまったく変えてしまった藤田嗣治の心の中まではわからないが、生涯ずっと自己の戦争責任について反省の意を示さなかったことはまことに残念である。


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