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zoom RSS 『忘れまじ』第一次大戦における良心的兵役拒否者たちの記録

<<   作成日時 : 2016/09/24 06:28   >>

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 『忘れまじ』(Not Forgotten)は風刺作家であるイアン・ヒズロップをプレゼンテーターに招き、第一次世界大戦が英国に与えた影響を検証したドキュメンタリー・シリーズ。英国チャンネル4で2005年から2009年にわたって7作が放映された。今回はその中で6作目にあたる『戦おうとしなかった男たち』(2008年)を紹介する。

 第一次世界大戦が始まって2年後の1916年、英国にも徴兵制が布かれ、18歳から41歳までの独身男性に兵役の義務ができた。だが、兵役を免除される者の条件が4項目あった。それは@国益に関わる仕事に従事している者、A召集によって扶養家族が貧窮に陥る者、B病弱の者、C服務に対する良心的拒否者である。ここに「良心的兵役拒否者」というものが誕生したわけだ。

 当時、英国各地の若者たちはヒロイズムに走り、勇んで志願していた。その様はリチャード・アッテンボロウ監督の名作、『素晴らしき戦争』(Oh! What a lovely war)にも再現されているとおりだ。こうした国中が熱狂する雰囲気のなか、「臆病者」と嘲笑され、後ろゆびを指されながら兵役を拒否するのは生易しいことではない。審査で「お母さんを目の前でドイツ兵に殺されたらどうする?」、などと意地の悪い質問をされるのだから、「愛国心」や「家族の絆」より「人は殺さない」という道徳律が上位にくる価値基準を軸にしっかりと人格を形成していないと、維持できない大変な抵抗である。それでも兵役拒否者は16,000名にものぼった。クウェーカー教徒、メソジスト教徒、そして社会主義者たちである。彼らはconscientious objector (良心的兵役拒否者)を短縮して Conchie(コンチー)と呼ばれた。

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 まだ18歳のセドリック・ヴァイポン・ブラウンも、宗教的理由で兵役を拒否した。彼はクウェーカー教徒の自主参加救急隊、FAU(The Friends Ambulance Unit)に入隊し、戦場で負傷した兵士たちの治療にあたった。武器は不携帯、無給で4年間の奉仕だ。一般兵より勇気が要るかもしれない。セドリックは弟で医学生のラルフにも兵役を拒否するよう勧めた。だがラルフは、兵役拒否を貫くには救急隊では不十分だと考えた。「傷ついた兵士を治してまた戦場に送るのか?」、というわけだ。弟は民間人の負傷者のみを扱うFriends Relief Serviceという団体に所属し、フランスにある産院で働きはじめた。そこでは1000人近い赤ん坊が産まれたのだが、ラルフはスペイン風邪が原因で1919年に死亡した。今は、カレーにある軍人墓地に1500人の戦没兵士とともに埋葬されている。

 プレセンテーターのイアン・ヒズロップは少し誇らしげに語る、「徴兵制が布かれた1916年、初めて英国特有の合法性が良心的兵役拒否者に与えられたんだ」と。だが、その現実はきびしかった。南ヨークシャーにある町、コニスブラウの雑貨商に生まれたバート・ブロックレズビー(Bert Brocklesby)は26歳の時、兵役からの完全免除を主張した。この町は大戦中、フランスの塹壕戦で174名の戦死者を出していて、彼の兄弟たちも果敢に応召した。だが敬虔なメソジストだったバートは、「神は私たちの命を奪うために命をくだされたのではない」と主張し、兵役を完全拒否した。「軍服姿のイエスを想像できますか?マシンガンを持ったイエスを想像できますか?銃剣でドイツ兵を突き刺すイエスを想像できますか?そんな光景を思い描けないことは我々みなが知っているはずです」、と説教したバートは二度と発言を許されなかった。戦意が高揚する町ではバート一家は臆病者とののしられることになる。だが彼は揺るがなかった。バートは宗教的根拠のみならず、すべての英国人は個人の良心に基づいて生きる自由があり、政府から虐待を受ける理由はないと考えた。彼は非戦闘員としての苦役を命ぜられたがそれも拒否したためただちに逮捕され、「16人の絶対拒否者」の一人としてリッチモンド城(当時、兵役拒否者を収監していた)に投獄された。城の房には恋人の似顔絵など、彼が書いた落書きが今でも残っている。

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刑務所として使われたリッチモンド城

 16人は屈辱的な方法で死刑を宣告された後、執行はされず、アバディーンで強制労働に従事する。国民の眼は兵役拒否者には厳しかった。当時、弟を含めた故郷の兵士たちは6万の犠牲を出したフランスはソンムでの悲壮な戦闘に参加していたのだ。バートは1919年に釈放され、後半生を反戦と反核に捧げた。

  ここにもうひとつ、ちがったタイプの良心的兵役拒否者たちが存在する。愛国者として応召したものの、戦場の現実に直面して戦うことのモラルを自問し始めた兵士たちだ。その中のひとり、ロナルド・スカース(Ronald Skirth)の日記がロンドンの帝国戦争博物館に残っている。スカースは、射弾観測兵として前線の敵を確定する任務についていた。しかし激しい戦闘と過剰な攻撃を眼にし、倒れている若いドイツ兵が持っていた恋人の写真を見たとき、彼のなかで突然の覚醒がおこった。「これ以上人を殺さない」と決心したのだ。相当な精神的苦痛を経験した後、スカースは平和主義者になり、消極的抵抗を始める。戦場で故意に的をはずすのだ。1919年に帰国したスカースは結婚し、教職についたが、第二次世界大戦で再び反戦の立場にたった彼は、周囲から「変人、空想家、共産主義者、理想主義者」などと誹られることになる。住まいを転々としながら教職を続け、1977年に80歳で他界。

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 陸軍中尉の息子で双生児のジョン・ハンターとアーサー・ハンターも同様だった。ジョンは数多くの戦闘に参加し、戦場イーペルでの活躍が地元の新聞に武勇伝として伝えられるほど優れた軍人だった。だが、あまりにも多くの死を眼にしたためか、軍務を拒否するようになる。弟のアーサーをさそって共に良心的兵役拒否を行なったジョンは不服従のかどで軍法会議にかけられ、重い刑罰を科せられる。家族にとっては大変な不名誉であったため、父は二人の息子と縁を切り、生涯許すことはなかった。投票権も失い、雇ってくれる人もいなかったジョンは訪問セールスマンになり、アーサーは国を捨てた。こうした悲劇に対して「地域は中尉である父親に同情的であり、軍を追放された二人の息子はむしろ死んでくれたほうがよかったという態度だった」、とイアン・ヒズロップは解説する。

 熱狂して兵士を送り出した英国。だが、フランス、タイン・コットの軍人墓地にはイーペルの戦い他、第一次大戦の戦没者11,956名が眠っており、他にも大陸、英国双方に無数の軍人墓地が存在する。犠牲者数に関しては資料によって統計数字に幅があるが、大戦中の全体での死者数は1700万人、そのうち戦闘による死者数はおよそ680万人、英国とコモンウェルスの戦死者は744,000人から887,858人、同民間人の戦闘による死者数は10,829人とされている。西部戦線で自らも戦った将校のひとりが、良心的兵役拒否者について次のように述べている。「世界中で最も困難な勇気とは、大衆に対してひとりで立ち向かう勇気である」。

現在、このシリーズ、『Not Forgotten』は放映が終了してしまっているが、以下のウェブサイトで詳しい情報について読むことができる。(2009年の同名映画はまったく別物です)。
http://www.english-heritage.org.uk/visit/places/richmond-castle/conscientious-objectors/

また、番組がそのままユーチューブにアップされているのを見つけたので、とりあえず以下に転載する。


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