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zoom RSS 『メディチ一族:ルネッサンスの領袖』(2004)歴史ドキュメンタリー

<<   作成日時 : 2018/06/09 17:44  

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 イタリア・ルネッサンス期の芸術家や思想家が、フィレンツェという小都市で驚くべき業績を成し遂げることができたのは、ひとえにメディチ家の絶大な援助と庇護があったからである。この一族は覇権争いに明け暮れながら富をたくわえ、教皇の座にまでのぼりつめ、いっぽうでは芸術の新しい流れに惜しげもなく資金を注ぎ込んだ。恩恵にあずかったのはボッチチェッリ、ダ・ヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ、ジョルジョ・バザーリ、フィリッポ・ブルネレスキ、ドナテッロ、マキャベリ、ガリレオ・ガリレイなど。皆、それぞれの分野で歴史を変えたつわものだ。

 ドキュメンタリー映画、『メディチ一族:ルネッサンスの領袖』(2004年、”The Medici: Godfathers of the Renaissance”, “I Medici: Signori de Rinascimento”)は、15〜17世紀のフィレンツェで、芸術家たちがメディチ一族というパトロンに庇護されながらも時代に翻弄される物語をドキュドラマとして再現し、わかりやすく解説してくれる。220分の大作だが、テーマごと4話のセットになっていて、鑑賞者は当時のフィレンツェにタイムスリップしたような気分を味わえる。難を言えば、「血糊をそんなにリアルに再現しなくても」と言いたくなるような殺戮シーンが少なからずあることや、役者に「イタリアなまりの英語」をしゃべらせるという時代遅れの「小わざ」をやらせているところが少しよくない。だが全編を通じて膨大な彫刻や絵画、建築の詳細が鑑賞できるうえ、名画の制作逸話がメディチ家の歴史を軸に説明されている点は、非常に楽しめる。では、メディチ・ファミリーと偉大な芸術家たちにまつわる200年の物語を、ものすごくかいつまんで紹介しよう。

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 15世紀はじめのフィレンツェは、今のイメージでいうとニューヨークにあたるような最先端の都市だったのだろう。銀行業をヨーロッパ最大級の規模に展開し、ローマ教皇や皇族たちにさえも金を貸すほどになったジョバンニ・デ・メディチと息子のコジモは、一族の力を誇示するために大聖堂建設を計画する。そして、設計士に選ばれたのは独学で気まぐれな天才建築家、フィリッポ・ブルネレスキだった。ブルネレスキはもう1000年以上も使われたことのない古典的なギリシア様式をフィレンツェに再現しようと目論む。成功する保証もないこの計画をコジモは受け入れ、メディチ家礼拝堂の巨大なドーム建設が始まる。建築中の壁が高くなるにつれ、職人たちは壁の上で食事をとるように指示された。いったん地上に降りてまた350段もの不安定な階段を登ると、もう疲れて仕事にならないからだ。飲み物には薄めたワインが提供された。これは水よりワインのほうが衛生上安全だったからだ。

 教皇と取引をしていることで世間の信頼を獲得し、ヨーロッパ最大の利益をほこったメディチ家だからこそ実現したプロジェクトだった。遠近図法を発明したドナテッロもこの時期、コジモのために働いており、当時としては斬新な「ダヴィデ像」を制作している。とにかくメディチ家の芸術にかける情熱は破格だった。ルネッサンス史が専門のマルチェッロ・ファントーニ教授は説明する。「コジモは富を特権と権力に転換する策を展開し、60万フロリン金貨を使ってフィレンツェで最も求められるパトロンになった。これは国の年間歳出の6倍に相当する金額だった」。

 コジモの孫にあたるロレンツォもすぐれた政治手腕を駆使し、一家の地位を安定させるとともに芸術家のパトロンとしても大いに力を発揮した。メディチ家はサロンになり、友人たちが集まってファッショナブルな文化と娯楽を楽しんだ。当時のカトリック教会とは違う世界観が、メディチ家の富によって展開されたのだ。サンドロ・ボッティチェッリも『春』や『ヴィーナスの誕生』のような快楽的な大作を描いた。当然敵も出てくるわけで、コジモの弟は教会でミサの最中に殺害される。さらにドミニコ派の修道士、サヴォナローラは「退廃である」とロレンツォ批判の声をあげ、メディチ銀行の国外支店は閉鎖に追い込まれてしまう。43歳で体調をくずし、死期が近づいたロレンツォは宗教の世界に戻り、1492年、懊悩のうちに他界する。サヴォナローラの指揮によって、贅沢な装飾や美術品が腐敗の象徴として焼かれた。ボッティチェッリも自分の絵画を火にくべ、以降は宗教をテーマとした画風に戻るのだった。

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 だが、芸術の世界でのロレンツォの貢献はやはり無視できない。弟や妻の死後、芸術になぐさめを求めていた彼は1488年、世界で初めて美術学校を設立し、そこで13歳のミケランジェロを発掘する。ロレンツォは彼を屋敷に引き入れ、家族と共に育てた。美術史家は「パトロンと芸術家のめずらしく緊密な関係だった」と解説している。

 十数年後、ワーカホリックのミケランジェロは寝食もけずって13フィートの大理石に挑んでいた。ダヴィデ像だ。彼は作業の進展をうまく管理する方法をあみ出した。水槽に水をはり、彫刻の蝋型ミニチュアを沈める。一日ごとに水面の高さを少しずつ下げていき、ミニチュアの水上に現れた部分をみて、大理石を注意深く刻んでいった。ねばること3年の1504年1月25日、世紀のダヴィデ像は完成した。この頃にはすでにメディチ家の跡取りであるジョバンニとジュリオは追放され、住民は共和制を楽しんでいた。もともとは聖堂のてっぺんに飾る予定で造られたダヴィデ像だったのだが、「皆によく見える場所に置こう」という話になり、結局、市庁舎(ヴェッキオ宮殿)の前に設置された。こうして、ミケランジェロの傑作は共和制支持者の芸術となった。メディチ家にとっては皮肉な話である。

 ローマ教皇ユリウス2世の依頼で、青年時代を過ごしたローマに戻ったミケランジェロは、システィナ礼拝堂の天井画にとりかかる。1000uの天井にフレスコ画を描くというのは想像できないほど大変な作業で、「彫刻家であるミケランジェロにやらせて失敗させる」、という対抗者からの陰謀だったとも言われているが、ミケランジェロは『創世記』をテーマに4年で描きあげた。出来栄えは言うまでもないだろう。

 さて、フィレンツェから追放されたジョバンニは1512年、スペイン軍を引き連れてフィレンツェに戻り、復権を果たす。そしてマキャベリを謀反人として投獄、拷問した後、追放する。ジョバンニは裏取引にも長けていたようで、ローマ周辺でせっせと仲間を作り、ユリウス2世の死を受けて教皇レオ10世になる。ローマで酒池肉林の生活をしながら、さらにメディチのお家芸でもある芸術振興に精を出し、サン・ピエトロ大聖堂の建設費用を捻出するために免罪符を大々的に発行。これに怒ったマルティン・ルターが質問状を送り、グーテンベルクの印刷機の助けもあって国際的ローマ・カトリック批判に発展していく。かたや追放の地で執筆を続けていたマキャベリは、『君主論』をロレンツォ(ロレンツォの孫のほう)に献上したりしてメディチとの関係修復に苦心している。そして1521年にレオ10世が急死した後、教皇クレメンス7世に就任したメディチ出身で従兄弟のジュリオは、芸術を擁護したり、自分の庶子であるアレッサンドロをフィレンツェ公にしたりとなかなか政治的である。ついでに英国のヘンリー八世が「スペイン国王の叔母さんとは離婚して、侍女のアン・ブリンと再婚したい」と言ってきたりして、当時のローマは今でいう「週刊誌ネタ」に事欠かなかったのではないか。

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 話を少し戻すが、ローマの権威から少し自由になった共和制フィレンツェでは、ダ・ヴィンチが世界初の人体解剖研究を行なっていた。議会はダ・ヴィンチとミケランジェロの双方に市庁舎の壁画を描くよう命じ、競いあわせた。ダ・ヴィンチは「アンギアリの戦い」を、ミケランジェロは「カッシナの戦い」を制作したが、前者は現存するか未だ不明、後者は完成しなかった。なお、下絵は残っていて、後世の美学生が模写をくりかえしている。時代の混乱のせいで、貴重な芸術作品が散逸してしまうのは、残念なことだ。ミケランジェロのダヴィデ像も戦乱のとばっちり被害に遭っている。1527年、スペイン王カール5世の軍がローマに攻め込んで殺戮を行なった際、フィレンツェ公アレッサンドロが教皇レオ10世の庶子であったことから、市街戦が起こる。人びとは市庁舎の上から椅子を投げ捨て、これがダヴィデ像を直撃したのだ。だが、ひどく破損してしまった像のかけらを拾い集めて密かに保存した少年がいた。後の画家で彫刻家で美術史家、ジョルジョ・ヴァザーリである。

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 10年後、アレッサンドロが暗殺された時、彼には子供がいなかった。メディチ家はアレッサンドロの遠い親戚からコジモ(後のコジモ1世)を探し出してくる。メディチ家継承者としての正統性が疑われることに怯えていたコジモ1世は、地位に相応しい教養を身につけ、スペイン皇族の娘と結婚し、そしてフィレンツェ史上初の海軍をつくった。ところで成人したヴァザーリは、フィレンツェ公になったコジモ1世のもとを訪れ、「ダヴィデ像を復元したい」と申し出る。コジモ1世の援助により1543年、ダヴィデ像は市民の前に甦った。ヴァザーリは画家、彫刻家として秀でていたのみならず、芸術工房を運営する能力にも長けていた。「官僚を安定したシステムで長期雇用することが政権維持に不可欠である」と考えたコジモ1世は、ヴァザーリに命じて回廊式の事務所ビル(今のウフィツィ美術館、Uffizi=Ufficioはイタリア語で事務所を意味する)を完成させる。ファントーニ教授はいう。「ヴァザーリは画家で彫刻家で建築家であるばかりか、何よりこれら3つを統合し、メディチのイデオロギーに則ってスーパーヴァイズした。ヴァザーリは単に美術品を作ってたんじゃなくて、コーディネイターとして、恐らく西洋史初の系統的広告フォームを形成したんだね。何もないところに領土イデオロギーを創作するためにね」。

 コジモ1世はまた、ガリレオ・ガリレイを優れた科学者として3世代の家庭教師に雇い入れたりもしている。だがやはり教会の絶大な力には逆らえない。コジモ自身、ローマの禁書目録にある書物を多く所持していたため、異端審問で妥協せざるをえず、以降はガリレオを援護しなかった。有力なバックを失ったガリレオは裁判で有罪となり、その後軟禁刑のまま生涯を終える。200年におよぶメディチ家の小宇宙に輝いた最後の星だった。芸術の世界に君臨した一族、メディチ家の夢の跡は、今も世界中の人びとを魅了し続ける。



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